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『金魚の金さん』

鉢の中でのんびり泳いでいる金魚をぼんやり眺めながら過ごす平日の午後ほど、
私にとって贅沢な時間はない。
ましてや、今日のような陽気の良い春の一日は尚更のことで、
お隣が庭に植えている桜が満開で、時折、ひらひらと風に煽られた花びらが、
こうして、開け放った窓から忍び込んできたら、思わず顔も緩みっぱなしで、
「素敵……」
そう、つぶやかずにいられない。
畳に落ちた花びらをつまみあげ、鼻に近づける。
「これこれ。この香り。いいわねえ……。金さん嗅いでみる?」
丸いガラス鉢に張った水にそっと浮かべたら、それまで、底のほうで石ころと戯れていた、
赤い金魚の金さんが、長い尾びれをひらひら揺らして、水面の方へ上がってきた。

「フフ……。餌じゃないのよ」
金さんは、おちょぼの口をしきりに動かして、花びらをつついていた。
「あんたも感じる? 春の匂いを。違うの。餌じゃないの」
やがて、金さんは餌じゃないと諦めたのか、再び、水底へと体の向きを変えた。
「食い気よね。やっぱり。フフ……」

金さんは、水底で石ころに口をつつく作業に戻った。
一体何をしてるのだろうと思うが、きっと、私には見えない美味しいものが
石に付着しているのかもしれない。
犬のように尾びれをひらひら揺らしているから、楽しい作業にも映る。

「金魚の金さん、今日も平和に過ごしています……か」


◆◆◆


次は私も作業する番である。
鏡の前に立って、ビニールの手袋をはめた私は、頭のつむじから丁寧に丁寧に
指を動かしていた。白髪染めである。
一ヶ月に一度、こうした作業をするのは、大変面倒である。どうしてだろう、白髪は黒髪より伸びるのが
早いのだ。動いたり歩いたりはどんどん遅くなるのに全く不思議。
しかし、70歳を迎えた今年とあっては、私の体、手入れってものを大事にしなくちゃ
ならない。最近覚えた言葉、メンテナンスってやつである。
そういえば、最近はカタカナ言葉が多くて困る。
つい先日も、テレビでキャスターが(これもカタカナ言葉だわ)、
「コストパフォーマンスが……」
とか何たら、喋っていた。
横文字にすれば何でもいいってものじゃないと思う。
格好がいいのかしら。さらりとそんな言葉を使えたら、仕事できますよみたく
思われるのかしら?
かといって、後期高齢者とか前期高齢者とか、おかたい日本語で
はっきり言われるのも困ってしまう。
高齢者って言葉に密かに抵抗感がある私。
他に良い言い方はないのかしら。老人……、シルバー……。何だか……。
つまり私は、自分を年寄りと思いたくないのだろう。
しかし、娘の美容クリーム(私のよりも高級で、目尻の皺に効果が高そうだから)
をこっそり拝借したことは、いけなかったと反省している。
「あれ、何だか減りが早い」
と、娘が首をかしげている傍で、
「そう? 気のせいじゃない?」
と、とぼけるのは後ろめたかった。いいつつも、既に五回ほどやっているのだが。


「現実はこの通りよ。光子。白髪を染める女、光子。70歳。
娘の美容クリームをこっそり使う女……」

髪の仕上がりは思ったよりもよかった。安心。これでしばらくはこの作業をせずに済む。
こんな作業は、こういう陽気の良い日の、ことに、夫がいない時間帯に限る。
別にからかわれるわけじゃないけれど、あまり見られたくない。
その夫は今年で75歳になった。もう髪はすっかり無くて、
「俺には染めるところが無い」
と、いつか笑いながら言っていた。

まあ、夫婦共々病気無く過ごせるのは有難いけれども、人間は贅沢だから……。
こうして、髪を染めてしまったり、皺を少しでも目立たなくしようとしたり。
ともわれ、娘にそろそろばれそうだから、私も同じのを買おうかしら。

夫は昼食を済ますと、バスに乗って図書館に出かけていった。
最近は時代小説にこっているようで、本を探すついでに、江戸の古地図
なども調べているみたい。
「八丁堀を歩いてみたい」
と、先日言っていた。捕物でも読んでいるのかしら。

私は本なんて滅多に読まなくて、最近はもっぱら昔の映画を。
レンタルビデオ屋(あっ、またカタカナ言葉)に週に二回は出向いている。
そして、夜になると、私だけの上映会を始める。
夫は夕食が済むと、風呂に入り、さっさと部屋に引っ込んで本を読むし、
35歳の娘は、そろそろ、もう、結婚するのかしら?と予感させる、というか、
させてほしいのだか、私にはその実わからない遅い帰宅を
ここ最近してくれるので、私だけの上映会になってしまう。
その際、居間を暗くして映画を観るのが好きな私だが、
あるとき、いつのまにか背後に夫が立っていて、
「おお、なんて観方をしてるんだ」
と、呆れていた。
「部屋を暗くして、白黒映画を白い服来たばあさんが観てて、怖いぞ」
意地悪なことを言う夫に私はこう返した。
「じゃあ、一緒に観てくれる?」
しかし、つれない言葉。
「ううん、いいや」

鈍い夫である。
そのとき観ていた映画は、結婚前、一緒に観た映画だったのに……。
映画館の暗がりの中、初めて手を繋いだことなんてこともきっと忘れているのだろう。
初めて、男の人と手を繋いだ初めてのデート。
あれほど素敵な緊張はなかった。映画の内容なんてほとんど入らなかった。

あのときめきを夫は忘れたんだろう。映画だって忘れてるんだもの。
しかし、私の方もその現実について、昔ほど落ち込まなくなっている。
それだけ年を重ねたということかしら。



午後三時を過ぎて、学生時代の友人から久々に電話があった。
内容は、それぞれの近況、体調、子供のこと、孫のこと、それから昔のこと。
お茶を啜りながら、時折、漬物をおやつ代わりにぽりぽりかじり、
足もおっぴろげただらしない格好でする話はとても楽しかった。

それから立て続けに二本の電話。
一本は娘からで、今日は遅くなるとのこと。
残業って言ってたけれど、デートじゃないのかしら?
あの子、結婚する気あるのかしら?
仕事は順調らしいけれど、やっぱり、親としては、結婚の方に気がいってしまう。
五年前、結婚を約束していた彼と別れて、それから、妙にさっぱりとしてしまった
娘だから尚更のこと。
娘は携帯電話に着信があると、仕事の話でも何でも、一度部屋に引っ込んでしまう。
こっそり娘の美容クリームを使ったときのように、こっそり、盗み聞きしたい。
メールなんてものもしてるらしいけれど、打ち終わったら、画面が変わっているので、
一度盗み見ようとした私のもくろみも失敗済みである。
そんなことしちゃいけないのだけれど、つい……。
二人の子供のうち、上の男の子はもう45歳。隣の県に住んでいる。
夫の遺伝をしっかと継いだために髪の毛が半分になってしまった。
その息子らは高校生と中学生。
二人とも、今から、将来髪の毛が抜けちゃうんじゃないかと心配している。

この間、久々にやってきた二人がそんなことを言うものだから、私は可笑しかった。
笑ったら、「笑い事じゃないよ、ばあちゃん」と、たしなめられたけれど。

見るたびに息子の髪の毛が減っている。可愛い孫たちもどんどん大きくなっている。
だから余計に、まだ一人身の娘を案じてしまう。

もう一本の電話は、怪しい勧誘の内容だった。
「今ならば、非常にお得にお手に入れることができる宝石がございまして……」
あまりにも怪しいので、どんな風に話を膨らませるのだろうかと悪戯心が起き、
少しだけ話に乗ってみたりした。勿論、断るのだけれど。

そんな風に午後を過ごしながら、今日もそろそろ西日が強くなってきた。
若い頃は思いもよらなかった人生、日々。
頑張っている若い人には申し訳ない思いを抱きながら、今日の私は……いいえ、
今日も私は、のんびりと過ごしてしまった。


「金さんと同じね」

再び居間に戻った私は、テーブルの上に戻した金魚鉢へと声をかけた。
金さんはあいも変わらず、水底で石ころをつついていた。


◆◆◆


夕日と呼ぶにはまだ早い太陽の照りが、私の背中を押して、
私をスーパーへと向かわせていた。
いいえ、どちらかといえば、のんびり過ごしていた私は、
ついぞ、
「今日の夕食は……昨日の残り物でいいかな……」
と、怠けそうになったから、これじゃいけないと腰を上げたのだ。

今夜は夫と二人の夕食だから、何にしようかと考えると、
魚でいいかなといつものようになってしまいそう。
昨日は刺身だったでしょ。その前は煮付け。その前は……何だったっけ?

そのとき、ふんわりとカレーの匂いが漂ってきた。
どこかの家では今夜はカレーなのだろう。

「いい匂い……。ああ、とてもいい匂い」

そして、スーパーの帰り、私の提げる買い物には、野菜とお肉が。
夫が本を読むときによく舐めている珈琲味の飴も買った。
金魚の金さんの餌も買った。

いよいよ、太陽は夕日になって、どこか遠くへ行こうとしている。
東の空には薄いお月様が現れていた。

道行く人は皆、家に帰る途中。背広姿の人も、学生服姿の子たちも。
孫の年頃の男の子を見つけると、今頃孫は何してるだろうと考える。
同じように、汗をたくさんかいた姿で、お腹を空かして、家路を急いでいるのかしら。

明日は何をしよう……ふとそんな考えが浮かんだ。
私も汗をかきたくなるような、頭を賢明に働かせるようなことをしたくなってきた。
久々に家の隅々まで掃除しようかしら。二階の部屋の窓、最近拭いてなかった。
この間、思い出そうとして思い出せないままだった漢字、調べてみようかしら。
ついでに他の漢字も勉強しようかしら。

これだけは思い出せる。今考えていたことは先週も考えていた。
いつもやらずじまい。のんびりだらだら。
これじゃいけないと思いつつ……洗濯も掃除も料理もそれなりにしてますと言い訳して。
毎週ある、ご近所のゴミ収集場の掃除もやってますと小さく意地を張って。

「おい、光子」
「あら、あなた」

昼過ぎに出かけた夫が漸く帰ってきたらしい。
もう少しで我が家というところで会ってしまった。
家の外で夫に遭遇するなんて珍しいこと。少し、新鮮な気持ちがした。

「今お帰り?」
「うん」
夫の手提げ鞄が出かける前より膨らんでいた。
「また借りたの?」
「うん。三冊」
「精が出るわね」
「うん。そっちは買い物か?」
「ええ」
「今日は何だ?」
「カレーよ」
「あながち、どっかの家の匂いを嗅ぎつけたんだろう。犬みたいに」
「失礼ね……」
果たして、そうであった。

二人並んでの帰り道。付かず離れず歩いていく。
さっきは私を太陽が押してくれたけれど、今は誰も押してくれない。
ただ、夫が横で歩くから、合わせてついて行く。

「あなた、今日はどんな一日だった?」
「あっ? どんなって……まあ……本を探して、読んで……そんな一日だったよ」
「そう」
「そっちはどうだった? 相変わらずのんびりか?」
「ええ……。そうだけど」

「まっ。何よりだ。いいこった」

その言葉、私にはとても心地よい響きに聞こえた。
こういう人だから、私はのんびり過ごせる。
横を見上げると、夫の顔は飄々としていた。向かって右の夫の頬に大きな染みが
あるのだが、今は夕方だから薄くなって、老眼もあってか、幾分若く見えた。
身長は縮んだ二人だけど、やっぱり私より背が高い夫。
髪の毛が無くなっても私の夫。

夫が元気だから私はのんびり楽しく過ごしている。
だから、好きな本も沢山読んで。毎日のように出かけてもいい。
どうか、元気に過ごしましょうね。

本当は口に出して言いたいことを、心うちでつぶやいた。

「ん? どうした?」
「ううん。何でもない」
「金さんは元気にしてたか?」
「ええ。元気に泳いでましたよ。たまには相手してあげてね。あなたが夜店で
買ってきたのよ。名前だって、あなたがつけたんだから」
「でも、光子のお気に入りじゃないか」
「勿論、そうだけど。
あっ、そうそう、優子は今夜は遅くなるって。ねえ、あなた。あの子、恋人いるの?」
「さあ、わからないなあ。でも、いるかもしれないねえ。どう思う?」
「わからないのよ。最近のあの子の表情、読めない。でも、困ってる感じはない」
「母親がそう言うなら大丈夫じゃないか」
「そうねえ……。早くいい人見つかるといいけれど」
「そういや、一度、廊下で聞いてしまったよ」
「何て?」
「『じゃあ駅前でね』って」
「駅前で? 誰と?」
「わからない」
「それで?」
「それで終わりだよ」
「あらら……。それじゃあ、わからないわね。男の人だどいいけれど。
今日もそうだといいんだけれど」
「妙な母親だな」
「あら。あなたは心配じゃないの?」
「そりゃ、そうだけど。優子に任せるしかないだろ?
信じて待つさ。それだけ」
「まあ、そうねえ。あなたの言う通りよ。
でも、優子がこのままおばあさんになるかもと思うと心配だから、時々は
こうして愚痴るのを聞いてね、あなた」
「なるべく控えてくれよ」
「それはあなたの反応次第」

ちょっと悪戯に返して、夫の一歩前に出た。
一度ちらと振り返ると、どうしてだか、夫は私の頭あたりを見ていた。


我が家の門が見えた頃、唐突に夫が言った。
「なあ、映画、今夜も観るのか」
「ええ。あなたが本を読むならね」
「何の映画だ?」
「昔の映画よ」
「それは……こないだ、白いお化けみたく、暗い部屋で観てたものか?」
「別の映画よ」
「そうか……」

夫の口が一瞬尖った。それから、すぐに言った。
「一緒に観よう。優子もいないことだし」

「いいけれど……。急にどうして? 本は?」
「うん。今夜はいいんだ」
「どうして?」
「うん。さっきまではそのつもりでいようと思ってたんだが、急に気が変わった」
「変な人ね」

それから数歩歩くと、夫はまた唐突に言った。

「この前の映画、懐かしかったな」

「覚えてたの!?」
忘れられていると思っていたから、驚いた私が立ち止まり振り返ると、
夫は髪の無い頭をぽりぽりかいていた。

「そりゃあ……覚えてるよ」
「じゃあ、一緒に観てくれればよかったのに……」

「ああ、買い物袋持ってやらなくてすまん」
夫は急に関係ないことを言い出した。
照れているのか、いじらしい。
ちゃんと覚えていてくれたんだ。なら、きっと、初めて手を繋いだことも覚えて
いるだろう……。
ききそうになって、慌てて口をつぐんだ。そのことはきかずにおこう……。
また余計なことを言い出しそうだから。うちの夫にそこまできくのは野暮だから。

「じゃあ、そのうち一緒に八丁堀行きましょう」
「そうか。じゃあ、金さんの金魚鉢、次は僕が洗うよ」
「お願いします。じゃあ、今夜は私がカレーを作ります」
「いつものことじゃないか……。ああ、お願いします」
「フフ……。そうそう。金さんが待ってるわ。餌の時間なのよ。早くお家に入りましょう」

私はその場を動かずに、空いているほうの手で夫を促した、先に入ってと。
「光子が前にいるんだから、光子から入ればいいじゃないか」
「嫌です。あなたから入るんです」
「どうして?」
「どうしても」
「変だなあ」
「あなたこそ……」

無理やり、夫を先に家に入れたのは、照れもあった。
今日こうしてのんびり過ごせたのも、思いもよらず、一緒に歩けたのも、
全ては、この人がいてくれるからなんだもの。





のんびりだった一日の夕暮れに、ちょっとだけ、のんびりではない出来事があって、
しかし、金魚の金さんは、あいも変わらず、水底をつついていた。
夫が餌を撒くと、待ちかねていたように、水面に上がってきた。
口を開けてぱくぱくと丸呑みする姿を夫は目を細くしながら見ていた。

私の作ったカレーを二人で食べながら、たわいもない話をした。
もう何十年と繰り返してきた。これからも繰り返したい。
明日の予定とか、孫たちのこととか話題に上がったついでに、
再び、どうしてだか、娘のことをしゃべりだした私に夫は、
「もう優子の心配をしてる。さっきしたばかりじゃないか」
と、呆れていた。

私たちの間に置かれた金魚鉢の中で、金さんはあいも変わらず、水底で石ころを
つついていた。

(おしまい)
3年前に投稿した話。お蔵出しです。358

# by kobitoarawaru | 2012-04-13 02:05 | Comments(0)

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